結局、人生は「モノポリー」ではなく「人生ゲーム」のようなものかもしれないと思っています。
以下、詳細。
自己責任の限界
例えば、一度も酒を飲んだ事がない人が焼酎一升を一気飲みしようとしてて、「おまえ、それやると泥酔状態になって大変だよ」と忠告したら、「泥酔状態? 大丈夫、気をちゃんと張ってればいいんだろ?」とか言われたとします。
あれ? 分かりづらいな。
えー、別の話。
人生には、なんというか、色んな決断の局面があって、しかもその局面が未体験の事象だったりすることがまた良くあるわけです。
で、その決断の局面において大切になってくるのは、「この選択にどれだけのリスクがあるか正確に知る」ことな訳ですが、でも、未経験のことについて本当にそのリスクを理解するなんて事ができるでしょうか。
例えば、酒を飲んだことのない人に、泥酔状態のどうしようもなさを言葉だけで伝え切れるでしょうか。血中アルコール濃度が高くなり、アセトアルデヒドが神経を苛み、胃袋に現在消化中のアルコールが大量にスタンバっている、そんな身体状態に置かずに「泥酔」という概念だけで伝わるでしょうか。言葉は伝わるでしょうが、結局、その伝わった概念は「酒を飲んだことのない人」経験を元に再構成されたモノです。酒で胃を焼いた経験ではないのです。
例えば、私は職業柄、自己破産した人を見た事がありますが、その人のつらさというのは私は理解できるのでしょうか。不安や惨めさというものを正確に自分の神経網状に再現することによって、自分がそうなった時のリスクを想起できるでしょうか。
例えば、モラハラやパワハラを食らったことのない人に、そのリスクが正確に理解できるでしょうか。
無理に決まっています。
「○○な結果は、自分の判断の結果だから自己責任」という言説は、「判断を下す際に正確なリスク評価をできた」という前提によって成り立っています。
しかし、その前提はひどく危ういものではないかと思うのです。
霧の向こうには何があるか
現状、小さな山の頂上にいるとしましょう。
そして、近くにはもっと高い山があるらしいことも分かっています。
しかし、谷底に落ちるかもしれません。
しかも、辺りは霧に囲まれ、視界は判然としません。高い山といっても、この山と大して変わらないかもしれませんし、谷底はとても深いかもしれません。
そんな状況で、霧の向こうに飛び出せるでしょうか。
「とにかく、やってみること」とは、よく言われることです。
しかし、その言葉は「霧の向こうに飛び出していって、たまたまその先が山だった」人たちのモノであることが多いでしょう。「俺の場合、その先が谷底だったんだけど、まあ飛んでみろよ」という言葉はあまり聞きません。
人生は「人生ゲーム」
実際のところ、人生は「モノポリー」のように見えて、実は戦略もへったくれもない「人生ゲーム」のようなモノなのかもしれません。
自己責任で選択をしているつもりでも、実はただルーレットを廻していただけかもしれません。
ルーレットを廻しただけなのに、うまく立ち回ったつもりになっているだけかもしれません。運が良かっただけなのに自分の実力と思い込んで、ゴールマスで「お前らも勇気出せよ!」と囃しているのかもしれません。
自己責任という言葉は何のため
もし、人生が「人生ゲーム」のようであれば、努力というものにはあまり意味がなくなります。
ひょっとしたら、資本主義が共産主義に勝つことができた原因のひとつが、失われようとしているのかもしれません。
だとすれば、「自己責任」という言葉は、資本主義を維持する「呪文」のような働きがあるのでしょう。
努力しても大して何も変わらない社会のむなしさに耐えられるよう、我々も「自己責任、自己責任」と呟きながら霧の向こうへ飛び出して行こうではありませんか!*1
そんな事を↓を読んで思いました。
http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080318/1205768183
*1:自己責任でお願いします