不動産屋のラノベ読み

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自己責任論者は「科学する麻雀」を読むべき

科学する麻雀 (講談社現代新書)

科学する麻雀 (講談社現代新書)

 
 ↓を見て思うところがあったので、麻雀を引き合いに出して自己責任論に対して考えを述べます。
 

さて、自己責任じゃないとしたらなんなんだろう、ということで、とりあえず3つ考えてみました。
1. 社会のせい
2. 天災とかの類
3. 運命
たぶんオマエは2や3とは考えないだろうと思います。オマエはそれを社会構造が原因だとか、そういういふうに捉えているのだろうと思う。

2009-01-16 - すべての夢のたび。

↑いやー、3でしょう、どう考えても。
 

麻雀の実力は観測できない

 麻雀打ちの教科書的な本で「科学する麻雀」というものがあります。もともとWebに公開されていたものをまとめた本ですので、同じような内容はネットで見る事ができます。

ちなみに100試合した場合の平均順位のばらつきの標準偏差は0.12位(R134.16)であり、20人に1人は実力より0.24位(R268)も高い成績を収めることが可能である。
麻雀において平均順位0.24位という差は絶望的であって、数十人の参加者のいる大会でたった100試合の結果から「優勝」「準優勝」など決めて実力を計測することには全く何の意味もないことがわかる(もちろん、参加者のそれぞれの実力に平均順位にして0.2より大きいような差がある場合は別だが)。

http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/mjcom_p6.htm

 これは、麻雀の実力について書かれたページなんですが、100試合程度の結果で実力云々するのは無意味と言っています。
 大事なことは以下の三点です。

  1. 麻雀の実力は直接観測できない
  2. 麻雀の実力は結果のみにより推測される
  3. 麻雀の実力を推測するためには、十分な量の観測が必要である

 つまり、半荘の結果で負けたからといって「お前下手だなー」とか言うのはナンセンスということです。その人はただ運がなかっただけかもしれません。
 もっとも、いつまでも「ついてねー」とぐちぐち言うのもみっともないですけどね。
*1
 

自己責任論の努力は観測できない

 極端な自己責任論で時々見受けられる「現在の境遇が良くないのはおまえの努力が足りないせい」というモノについてなんですが。要は「能力が入力されれば境遇が返って来る」ということでしょう。換言すれば関数として捉える事ができると言うことです。能力を x、能力を行使する対象(社会とかですかね)を f とすると、結果は f(x) です
 さて、ここで大事なことは x , f , f(x) のどれが直接観測可能であるか、ということです。

  • f(x) - 結果は観測できるでしょう。これは結果ですから、誰がお金持ってて誰がリストラされているかというのは観測が容易です。
  • f - 社会は観測できないでしょう。これは難しいでしょう。これが観測できるということは「ここまで努力すると結果がこうなる可能性は50%」とか、結果を観測せずに直接見えるということです。これは超感覚の類ではないでしょうか。
  • x - 能力は観測できないでしょう。これは議論あるところでしょうけど、私は直接観察不能であると思っています。例えばスカウターでもない限り相手の戦闘力は戦ってみなければ分からないでしょう。見た目や立ち振る舞いで分かることもあるでしょうけれど、それは今までの観測結果を元に判断していると思われます。そもそも、本当に能力が直接観測できるのであれば、利益分配について社会がもめる理由がなくなります。

 また、「現在の境遇が良くないのはおまえの努力が足りないせい」を示す為にはxが低いと言う事を示す必要があるわけですが、先ほど述べたとおり、x は f(x) の観測を元に推測しますから、「現在の境遇が良くないのはおまえの努力が足りないせい、なぜなら現在の境遇の悪さがお前の能力の低さを示しているから」と言ってるようなものです。これに説得力を与える為には、十分な量の観測と他者との比較が必要になってきます。
 
 まとめると以下の通りです。

  1. 能力は直接観測できない
  2. 能力は結果のみにより推測される
  3. 能力を推測するためには、十分な量の観測が必要である

 つまり、派遣切りの結果職を失ったからといって「お前努力足りないなー」とか言うのはナンセンスということです。その人はただ運がなかっただけかもしれません。
 もっとも、いつまでも「ついてねー」とぐちぐち言うのもみっともないですけどね。
 

あなたの語るセオリーは有効か?

 麻雀の話に戻りますが。
 昔から麻雀をやっている人なら分かると思いますが、セオリーとして「裏スジ」というものがありました。ですが、これは「科学する麻雀」にて観測により否定されています。このように、実力を直接観測はできないものの、個々のセオリーなどの分解可能な要素について結果を観測することによって効果の測定ができます。
 で、自己責任論の話に戻りますが。
 同じように、個々のセオリーなどの分解可能な要素について結果を観測することによって、有効なセオリーを導き出すことは可能でしょう。ですから、十分な観測をもって導き出された有効なセオリーを知っており、かつ相手がそのセオリーを知らないことについて過失があるならば、その人に対して十分な観測を行わずに「そんなの自己責任でしょ」と言っても妥当であると言えるでしょう。たとえば、「ふぐを素人が無免許で調理して食べて入院」とか。
 ただし、f が時間によって変化しない事が前提になります。現実には社会は変動しており、5年前の結果から導き出したセオリーが現在通用するかどうか保証はないです。

*1:この辺で私の言いたい事が予想ついた方は、お帰りいただいて結構です。その予想正解です。