「自分は、自分の考えで行動している」と思っている人ほど、他人の考えに汚染されていると思います。
いや、以前もカミングアウトしましたが、私は創価学会員なのですが、その経験上の話です。
周りには(私のような不良会員も含め)色んな学会員がいるんですけど、
「自分は自分でこの道を選んだ」
とかいう人に限って、いかにも創価、という考え方をするものです。いや、お前学会二世だろ、みたいな。
「一応、信仰は続けるけど、親の影響が強いよな」
とか、自分の生まれから来るバイアスと向き合ってる学会員は、比較的ニュートラルな考え方をします。
いや、
結局のところ、「視聴者の過半数」に関する限りにおいては、ワイドショーを愉しむ人もブログを眺める人も、コンテンツに対峙する姿勢なり、仕掛け手に対する免疫なり、判断が願望に歪曲される度合いなり、そういう次元では大同小異でしかない。そして、メディアでもそうだしブロゴスフィアでもそうなのだが、そんな事はとっくにお見通しの何割かの仕掛け手連中が、マジョリティを煽ったり、敢えて反抗して噛み付いてみたり、色々と画策して空気をかき回す。またかき回すことが出来てしまっている。
インターネットを楽しむ人達って、そんなにお利口なんですか? - シロクマの屑籠
このエントリを見てそんなことを思い出したんですが。
私が思うにですね。
リテラシーで大事なことは、「自分の考えは偏向している」「絶対、自分は何か間違っている」と思うことではないかと。「自分は正しい」とか思った瞬間から、それを利用しようとする何者かに良いように乗せられてしまうんではないかと。
で。
さらに、私はこう思うのです。
- 「絶対、自分は何か間違っている」のであるから、当然「誰もが何か間違っている」
- 「絶対、自分は何か間違っている」のであるから、「意見を言えば必ず誰かに修正される」
- 「誰もが何か間違っている」のであるから、「間違うことを恐れる必要はない」*1
- 「誰もが何か間違っている」のであるから、「誰かの間違った意見は、淡々と修正をすればいい」
- そして、その「修正」も「必ず何か間違っている」
こうやって、自分の考えを整理するとモヒカンに近い考えなんだな、と感じました。
そうしてみると、カルトからディプログラミングするには、モヒカンで囲むのが効果的なのかもしれませんね(w
で。
ああ、そうそう。
もうすぐ選挙ですね。スター1個につき