不動産屋のラノベ読み

不動産売買営業だけどガチガチの賃貸派の人のブログ

ナイフで刺したら血が出るのと同じくらい


われ思うゆえに思考実験あり―最新科学理論がもたらす究極の知的冒険

われ思うゆえに思考実験あり―最新科学理論がもたらす究極の知的冒険

 橋元の本のどれだったか忘れたが、たぶんこの本であろうと思うのだけど。
「哲学者は最新の科学の成果をもっと取り入れるべきだ」
「人間同士は遺伝子の99%以上が一致するのだから、感覚や喜怒哀楽などのある程度の精神活動の同質さというものを、信頼して良いのではないか」
 というような事*1を書いていて、ちょっと「おお!」みたいな事を思った事があります。


 で。
 このエントリを見て、似たような事を思いました。
 正直内容が難しく、誤読もあるかもしれないけど、「誤謬を恐れない」のが今年の私の目標なので、ご寛恕いただきたいです。<del>する準備はできてますぜ。


「その人なり」であること。 - 地を這う難破船


 これに対する私のブクマがこちら↓

とは言え、遺伝子が99%以上一致し、「私が痛いことはあなたも痛い」と推定できる上に、進化上獲得してきた人間の共感能力に一定の信頼を置くのも悪くない判断ではないかと思う。「大きなお世話」コストを社会が包めば

 とても、100文字では書ききれなかったので、エントリにします。

遺伝子が99%以上一致し、「私が痛いことはあなたも痛い」と推定できる

 基本、人間をナイフで刺したらだいたい血が出てくるわけで、それについて「自分の刺された体験」と「他人のこれから刺される体験」が可換ではないからといって、そのことを疑う人はいないわけです。
 ところが、他の生き物だとどうでしょう。
 哺乳類・鳥類・両生類・爬虫類辺りは疑いを持つ人はいないでしょうが、例えばエビカニクラゲ辺りになると「血、出るんだっけ?」てなことになります。我らがまだ見ぬエイリアン辺りになると、液体が出てくるかどうかさえ疑わしい。
 つまり、「人間をナイフで刺したらだいだい出血する」を担保するものは「遺伝子の相似」です。
 これは、ナイフで刺した場合だけに限らず、「殴ったら痛いんじゃなかろうか」「ひどいことを言ったら悲しむんじゃなかろうか」「セックスしてる時は気持ちいいんじゃなかろうか」というのも、同じ遺伝子プールから作られた生命であるからこそ言える訳で。(エビも交尾すると気持ちいいんだろうな、とはなかなか思いづらいでしょう?)


 で、

世の中恨んでも、幸せな奴恨んでも何も解決しねえ。

http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080107/1199717545

 このような意見について、同じ遺伝子プールから誕生して同じミームの海に浸かった者同士であれば、「ナイフで刺したら血が出る」ぐらいに信頼してよいことではないかと思うのです。

進化上獲得してきた人間の共感能力に一定の信頼を置くのも悪くない

 前段の意見に対して、「別に遺伝子を同定して『血が出る』ことを推定してるわけじゃねーよ、体験的なものだろ」という反論があるかと思うのです。全くその通りで、本来ならば「遺伝子を同定」したり「実際に切って」みないと分からないはずの「刺したら血が出る」ことを、人間は体験的に理解しています。
 しかし、それは一体、どのようにしてか。
「刺して血が出るところを観察したからだろ」
 いいえ、違います。いや、確かに「刺したら血が出る」はそうかもしれせんが。「殴ったら痛いんじゃなかろうか」には通用しません。相手の痛さを観察できないからです。
 これは、「自分が殴られた経験」を相手に投影して、「じゃあ、相手も痛いに違いない」と推定しているのです。つまり共感能力です。
 ブクマではうかつにも「進化上獲得してきた」と書きましたが、これが進化上の能力かどうかは知りません。しかし、共感能力がないとこの社会は成り立たないことは間違いなく、人間が社会生活を営むにほとんど必須の能力と言えるでしょう。ですから、相手の行動やその結果を推定するのに、それなりの能力を発揮すると信頼しても悪くないと、私は考えます。


 もちろん、この共感能力はしばしばエラーを起こします。
 たとえば、くまのぬいぐるみが車にひかれているのを見て、「かわいそう」と思ったりすることです。かわいそうなはずないじゃないですか、ぬいぐるみは(少なくとも我々と同じようには)痛くないんですから。ひろってホコリを払ってやったってぬいぐるみに何も良いことはないんですよ。これはただの「おせっかい」です。
 しかしですね。
 その行動について「ぬいぐるみにとって役に立たない」とか「私の痛さとぬいぐるみの痛さは違う」とかいうよりも、「くまさんかわいそう」と考える方が、(こういう言葉を使うのはどうかと思うのですが)「人間らしい」と私は感じます。

「大きなお世話」コストを社会が包めば

 とはいえ、エラーはエラーな訳で、「おせっかい」がすぎるとそれが「被おせっかい者」のコストになります。
 ですから、それを社会が包むようにすれば良いと思います。
 ひとことで言えば、「自由」と「自己責任」です。
 具体的には↓な感じで。


A「それはこうした方がいいよ」
B「Aはああ言ってるが、あの方法はダメだ。こうしろ」
C「お前ら、何を言ってるんだ。俺の方法が一番だ」
A,B,C「「「でも、最終的にお前が自分で決めろ。で、自己責任な」」」


 そんな無責任な、とか言われそうな気もしますが、「責任感のあるおせっかい焼き」ほどズレた時のコストが高く、始末におえないと思っています。


*2
*3

*1:引用ではありません。手もとに本がないので、これは思い出して書いています。

*2:しかし、書いたもの見直してみて、我ながら性格悪いな、と

*3:正直、俺がsk-44さんに論をあてるなんて、10年早いよねとも思う