不動産屋のラノベ読み

不動産売買営業だけどガチガチの賃貸派の人のブログ

他者経験の可換性と有用性について


ナイフで刺したら血が出るのと同じくらい - 不動産屋のラノベ読みの続き。


 前回のエントリで書いた事があまりにも伝わらず、けっこうへこみました。どれだけ文章下手なのか、と。
 そういうわけで書き直します。

「私の生」「他人の生」をもって、その固有の欠落を不幸の相をもって、相対化し交換可能なものと偽装することは、少なくとも当人にとっては、残酷なことだ。

「その人なり」であること。 - 地を這う難破船


 この意見には私は反対しません。個々の経験が他者の経験と可換ではないことは明らかだからです。


 だがしかし、以下の言には異を唱えたい。

ただ。muffdivingさんは、hashigotanに対しては、「自分はこう思うし、そうしてきたし、だから現在の自分が在る」と記す。muffdivingさんにそうした意図在ったのなら――それは、少なくとも「hashigotanに対しては」役に立たない。


 なぜか。
 それは、他者の経験が可換ではないことと、他者の経験が有用ではないことは、関係ない事柄だからです。


 安易なたとえで申し訳ないですが。
 特殊相対論が世に出て以後、「同時」の概念が変わりました。それぞれの慣性系の時間はそれぞれ別のものだということが分かったからです。
 しかし、だからといって、「同時」について計測する事が有用でなくなったわけではありません。近似的なものではありますが、別の慣性系の時間を適用しても、通常は実用に耐えるからです。
 同じように、他者の経験が可換ではない、としても、即座に他者の経験が有用ではない、とはならないのです。近似的ではありますが、他者の経験というものは自分に応用を利かせる事が出来ます。


 ですので、「おせっかい」というものは、他者の経験が可換ではないこと、を包んで行うべきなのでしょう。
「俺が○○したときには、××した。だから、お前も××すべきだ。おまえが失敗したのは俺のように××していないからで、それはお前の自己責任だ」
 このようなアドバイスを私はされたことがあります。
 これは「おせっかい」である上に、他者の経験が可換ではない事を理解していません。しかし、
「俺が○○したときには、××した。だから、お前も××すればうまくいくかもしれん。だけど、自分の判断で自己責任でやれ」
 というようなアドバイスは有用であるし、「おせっかい」コストも少なくてすむと思います。

私がそのようにしたから、し得たから、他人にそれを言える、ものではない。少なくとも、言うには資格が要る。「ネガティブ」な人に、その心的構造の事情を了解してなお、自分も「ネガティブ」であったが幸を得んとするなら前向きに生きるよりほかない、と、私的なかかわりもなく言う資格は、ない。資格が要ることを、親密圏のさして機能することなきブロゴスフィアにおいて人は忘れるのだろうか。

 その考えを私は否定したい。
 有用でコストの少ない意見を数多く得る事が出来るのがWEBの効用であると考えます。
 ですので、私は、少なくともブロゴスフィアにおいて、通常のコミュニケーションより繊細な距離感や「資格」が必要であるとは思わないのです。




 で。
 この考えが成立する為には、他者の経験は可換ではないが有用である、ことを示す必要がありますが、それが前回のエントリでした。


 今度は伝わりましたでしょうか?