先日、しばらく会ってなかった友人と飲んだりしました。
その友人はあんかけられ焼かれそばに影響されたらしく、受動態に凝ってました。私も受動態にしばらく汚染されて「ピーマンの挽かれ肉詰められ」とか言って、周りにうざがられていたのですが。
しかし「これは使える」と思ったのです。
カタカナ言葉はカタコト表現として不足
ところで、ラノベやマンガなどで、カタコトの日本語を表現しなければいけないシチュエーションがあります。「ニホンゴワカリマセン」のようにカタカナによる表現が良く用いられます。
しかし良く考えると、これは片手落ちです。
カタカナによるカタコト表現は、発音がカタコトであることを表しますが、文法が変であったり言葉の使い方を間違えていることを表現していないからです。
たとえば、ボビー・オロゴンのしゃべりを文章化する事を想像して下さい。カタカナ言葉で足りるでしょうか? 足りませんよね。むしろ、彼の日本語発音はうまい方だと思いますので、かえって違和感があります。
カタコトの日本語を聞く時の障害は、どちらかというと発音エラーより文法語句エラーの方が大きいでしょう。「何となく意味は汲み取れるんだけど......」的な感触こそがカタコト表現のキモである、といっても良いのではないでしょうか。
カタコト表現を記号化する手法
つまりカタコト表現で大切なのは、セリフの中に適度に文法語句エラーを仕込む事なのです。
しかし、これは労力が必要になるばかりでなく、日本語を習熟している人間がわざとエラーを仕込むことによって「わざとらしい」表現になりがちです。悪くすれば「痛い」表現になってしまうかもしれません。
そもそも、小説の世界では人物のセリフが記号化されてきました。現実の女性があまり使わない「......だわ」という語尾、現実の老人がほとんど使わない「......じゃ」という語尾、ともに小説の中では当たり前に使用されています。これは「......だわ」と語尾についたら女性のセリフですよ、という記号にすぎないわけです。
ですから、カタコト表現の文法語句エラーも、ある程度自動化された処理であることが望ましいでしょう。
そこで受動態です。
カタコト表現は受動態
とにかく、語句の順番を入れ替え受動態を多用する、こうすることによって適度に分かりにくい文法エラーが含まれた文章になります。
「吾が輩は猫である。名前はまだ無い」→「猫のまだ名前がないのが、吾が輩である」
ほら、いい感じ。意味は分かりそうな気がするけど、かなりおかしい日本語ができます。
まあ、すでに西尾維新先生が「りすか」のしゃべり方で使ってるんですけどね。
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