不動産屋のラノベ読み

不動産売買営業だけどガチガチの賃貸派の人のブログ

「過激すぎる表紙のラノベを置く場所を考えろ」は快不快の問題ではないどころか、エロの問題でさえない。

 
 
 
 前回の記事とも関連しますが、

 あの表紙が「女性を性的に消費する」ものだからこそ問題になっているのです。
 
(略)
 
 例えば、今回の問題であれば、過度に性的な意味づけをもって強調された表現は、女性をその人格ではなく男性の性欲を慰撫するものとしてしか認識せず、かつ本来女性は男性を慰撫するために存在するわけでもないのに、そうならない女性に価値がないと宣言するものです。(略)自分が人格ではなく物体として認識されていることをここまで明け透けに宣誓されれば、誰だって脅威を覚えるでしょう。

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↑この件について書きます。
 
 まず、大前提として『「女性を性的に消費する」こと自体は、悪いことではない』です。
 もし、これが悪いことであるならば、それはすなわち「女性には自ら性的に消費される自由がない」ことを意味します。
 女性自身が所有する性的価値を、自らの意思で利用することを禁じられる、ということです。わかりやすい例で言えば、女性から売春する自由を取り上げる、ことにつながります。
 自由がない、ということは、自分ではない何者かに管理される、ということです。
 たとえば、伝統的な社会では、未婚のうちは親に、結婚した後は夫によって管理されます。また、法律という形で国家が、公序良俗という形で社会が管理します。女性は、親・夫・国家・社会が許す範囲でのみ自らの性的価値を利用することができるのです。
 
「売春の自由など制限されるのが当たり前だろう」と言われるかもしれません。しかし、「性的に消費される自由」とはそのようなわかりやすいケースだけに表れるものではありません。
 かつての日本では膝を見せることははしたないことでした。逆に言えば、女性が膝を見せて「性的価値を利用する」ことについて、抑圧があった、ということです。
 
 もうお分かりかと思いますが。
 ラノベの表紙がエロくなく、たとえば「黒髪ロングの貞淑そうな女性」ばかりだった場合、これはこれで「女性をその人格ではなく」貞淑さをもって評価する、という抑圧的なメッセージになります。*1
 巨乳という記号が、貞淑という記号に差し替わっただけのことです。
 エロくても、貞淑でも、性的に消費。
 つまり、快不快の問題ではないどころか、エロの問題でさえないのです。
 女性が自由に自身を利用することに対してどのような抑圧があるか、という問題になります。
 
 ここで、女性は抑圧を受けてきた歴史的背景があります。そして現在でも女性差別などの抑圧を受けています。
 そういった理由により、女性は社会的抑圧に弱いと考えられます。また抑圧的なメッセージが飽和することによって、実際に女性差別が強まるかもしれません。弱者に対する配慮として、一般の書店売りされているラノベの表紙についてある一定の規制や自制をすべき、という考え方には一定の理があると思います。ヘイトスピーチと同じ理屈ですね。
 うかつなことを言うとフェミニストの方々に怒られてしまいますので、具体的な評価は避けますが、いずれにせよ、女性に対する抑圧という観点からは、「キモいから」「過激だから」などというふざけた理由で制限してはいけないのです。
 
 リバタリアンならば、「そのような抑圧があると考え対処することに利益がある者が、なんらかの対処すればよい。それが多数派ならば公の場からは消えるはずだ」と言うのかもしれません。
 リベラリストは、「表現の自由を制限しすぎるのは望ましくないので慎重であるべきだが、弱者保護のためにやむをえない範囲での制限は必要」と言うでしょう。
 コミュニタリアンは、「一般の書店の目につく場所にそのような表現があることについて、社会的合意があるとは言えない」とか言うんでしょうか、よくわかりません。
 保守には、「そのようなみだらな表現は公序良俗に反すると考えられてきた。これからもそうあるべき」と言ってほしいのですが、そうでもなさそうです。
 
 みなさんはどうですか?
 
 
 

*1:そんなことねーよ、と言う人は、数年前の人工知能学会の表紙問題を思い出してください