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不動産屋のラノベ読み

不動産売買営業だけどガチガチの賃貸派の人のブログ

科学とニセ科学と宗教

 
「わからん」とのことなので、簡単に。
 

私が「わからん」のは、突き詰めると科学とニセ科学と宗教の違いだ。3つとも同じに見える。要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。

科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想

 どこまで相対化するかという点が問題になりますが、言ってることは一理あります。でも、あまり意味が無い。「全ては無である」程度の当たり前な確認に過ぎないのではないでしょうか。
 

科学は経済的思考

 生まれでた人々が何か素晴らしいことを考察しても、それを他者に伝えずに死んでいくと、次に同じテーマについて考察する人はまた0からスタートになります。これは経済的ではないので、誰かが考えたことについてその上に積み上げて考察した方が経済的です。
 そこで注意すべきは、間違った考察の上にどれだけ考察を重ねてもそれは間違った考察となる点です。傾いた土台の上に家を建ててもいつか崩れるのです。
 だから、科学はその考察が正しいかどうかに対して敏感になります。そのためのツールとして「観測」と「論理」があります。
 

「観測」が欠けるのが宗教

 たとえば、科学のようであるけれど宗教であるものの例として、ゴスのオムファロス仮説を挙げます。

その仮説によれば、神は地球を山や谷とともに、木を年輪とともに、アダムとイブを髪と爪とへそ(Omphalosはギリシャ語でへそ)とともに創造したはずだ。従って、地球や宇宙の推定年齢を信頼できる証拠は見出せない。この仮説は反証不可能であり、科学を完全に破壊するものであるとともに、フェイクを創造する神というすわりのわるいものであるため、流行しなかった。

"Appearance of Age"あるいはオムファロス: 忘却からの帰還

 この仮説は論理的であり筋が通っています。しかし、観測をもって証拠とする事ができない。「論理」があっても「観測」が欠けているので宗教です。
 こう申し上げると「科学でもっともらしいとされている仮説のいくつかは観測による証拠を得ていない。あれは宗教か」と言われるかもしれません。しかし、そうではありません。それらの仮説はほとんどが現在は観測を得ていないが原理的には観測可能であるからです。オムファロス仮説はどう頑張っても、神様がちょちょいと指を振ったことにできるため、観測による証立ては不能なのです。
 一般に神様がいるいないの議論は同じような理由で観測を証拠にできません。故に宗教なのです。そして、もっと言えば、仮に遠い未来に神様を観測できたとしたら、それはもう宗教ではなく科学の範疇なのです。
 逆に、宗教に見えるが科学の範疇に踏み込んでいる、つまりニセ科学であるものとしては「祈れば病気が治る」という類です。これは観測をすれば事実かどうか分かります。ですから、宗教ではない。
 

なぜニセ科学は悪いのか

 先程も申し上げたとおり、間違った考察が正しいとされるとその後の考察が無駄になるからです。無駄は嫌いなんだ無駄は、無駄無駄。
 

なぜ科学が宗教に見えるのか

 先程も申し上げたとおり、考察の正しさを計るツールとして「観測」と「論理」があります。このツールに関しては信仰に近いものを持っているといえるでしょう。「我々が論理的に考察したことは、明日また我々が同じ事を考察しても同じ結論になる」「我々が厳密に観測したことは、明日また我々が同じ条件で観測しても同じ結果になる」、つまり観測・論理というものが等時等方であることへの信頼です。我々の理性に対する信仰と言えなくもありません。
 ですから、chnpkさんが「明日はりんご1個にりんご1個を加えたら3個になるかもしれないし、アンドロメダでは排中律が働かないかもしれないじゃん」というレイヤまで相対化されるのであれば、私は喜んで科学信者である事を表明しましょう。しかし、科学とニセ科学というのはそことは違うレイヤでの区別です。一緒にするべきではありません。
 男女の社会的差について議論しているところへ「突き詰めれば、男性も女性も同じ炭素生命体ですよ」と首を突っ込めば、「まぜっかえすな」という反応が返ってきてしかるべきではありませんか。
 

追記

 
 トラバ頂いたので。
 

 Lhankor_Mhyさんは"宗教と科学を同列に扱うレイヤはあるが、そこではニセ科学は同列に扱えない"と書いてらっしゃいますが、実は宗教、科学、ニセ科学を同列に扱えるレイヤはいくらでもあるのです。もちろん日常でそんなレイヤは使いませんが、あることはあるのです。
 私は例として神学を挙げました。神学は学問です。そして一応科学的考察の立場を取っています。神学が学問として成立している以上、宗教的見解を科学によって実証する立場が存在していることは明白ですね (ここまでは同意見)。
 それでは、エセ科学への信仰を*2、宗教的見解とみなして科学によって実証することは出来るのでしょうか? できます。エセ科学批判とは、まさにそうしたエセ科学への実証ではないでしょうか。つまり、エセ科学を排斥したいがための執拗な検証がくりひろげられているという現実により、エセ科学宗教的性質が定まってしまっているのです。
 例えば、ある特定の宗教*3が間違っているということを証明したいときは、その教義の変なところを検証してみますよね?

http://d.hatena.ne.jp/wiseler/20081116/p1

 そういった事柄については了解しているつもりです。こういう非実用的なことは言いたくなかったけど、科学も宗教も前提を必要としているので、哲学の一部分という意味で同列。であるなら、ニセ科学でさえ哲学の一部分として扱えるから同列に扱える、それは分かっています。しかし、そこに何の意味があるでしょうか、そこまでメタ視するなら人間の精神活動を全て同列に扱えます。ですから、私はもう少し意味のあるレイヤにて論じました。
 
 私の論では「観測」を必須とするかどうかで線引をしました。「観測」を必須とするものを科学、そうではないものを宗教(としましたが本当のところは「科学以外」です)という区別です。この線引において、ニセ科学は観測可能な題材を扱っている為、科学に分類されます。一方、宗教をニセ科学から切り離すことにも成功しているはずです*1。科学の立場に立っても反証可能性によって切り分けられるのは許容しやすいでしょう。極めて一般的な分類だと思っています。
 ですから、私はニセ科学は「科学の出来損ない」「科学の領分への侵犯者」「単なる誤謬」という捉え方をしています。
 
 もちろん、「お前が恣意的な線引をしてるだけじゃないか」という批判には「そのとおり」と申し上げるしかないです。しかし、科学とニセ科学を論じる際に科学哲学を持ち出す必要はないでしょう。
「味噌も糞も炭素化合物」という見方は正しいですが、その視点がお食事の際に役に立つことは少ないはずです。

*1:私は宗教をやっているので、箸にも棒にもかからないようなニセ科学と宗教が同一視されるのは我慢ならないのです