不動産屋のラノベ読み

不動産売買営業だけどガチガチの賃貸派の人のブログ

死ぬ権利

 
 自分の生き死にぐらいは自分で考えたいと思っています。
 

20年以上も生きていると、ぬるい人生なりに「死んでしまいたいほど辛い」という気持になったことは何度かある。
そのたびに色々な理由づけをして押しとどめてきたから今もこうして生きている。
しかし、周囲の人に自殺されるとその理由づけが弱くなってしまうのだ。

自殺をしてはいけない理由

ああ、やっぱり自分で死ぬっていう選択肢は「アリ」なんだよな…と思ってしまう。
「生命は生きることが自然であり、自ら死を選んでしまうのは不自然だ」という、自分の中の常識が揺らぐのだろう。
おそらく自分に近しい人であればあるほどその力は強い。というわけで自分の考える、「自殺をしてはいけない理由」は「自殺は周囲の人間を引きずり込む力があるから」とする。

 
 その理屈を突き詰めると「俺が自殺しちゃいけないのはAが自殺するかもしれないから。Aが自殺しちゃいけないのはBが自殺するかもしれないから(略)Zが自殺するかもしれないから」となるでしょう。
 すると、最後のZは他に引っ張る人がいないので自殺しても良いことになりますよね。「Zが自殺しても良いなら、Zが自殺するかもしれないから自殺しちゃいけなかったYも自殺してよい。Yが自殺してよいなら(略)俺も自殺してよい」となります。だから、この理屈はだめ。だめ、というか、本気で死にたい奴が「あいつがあとを追うかもな」程度で踏みとどまるかよ、つー感じです。
 

生きる権利と死ぬ権利はセット

 例えば、あなたがある部屋に入れられてこんな事を言われたとします。

「君にこの部屋の照明をつけておける権利を与えよう」
「いついかなる場合でも、この部屋の照明をつけている権利が侵害されることはない。電球の球が切れるまで照明は君を照らし続ける」
「ここに照明のスイッチがあるが、君に消灯する権利は与えられていない。照明を破壊したり劣化するようなことも許されない。電球の球が切れるまで照明は君を照らし続ける」
「さあ、君にはこの部屋の照明をつけておける権利を与えられた」

 さて、この「照明を消してはいけないけれど照明をつけておける権利」とは本当に権利なんでしょうか。
 
 私は違うと考えています。照明消す事が認められて、初めて「照明をつけておく権利」が生まれると思います。
 それと同じで、「生きる権利」とは自分の生命を自分の意思でコントロールする権利だと思っています。ですから、死ぬ権利のない「生きる権利」は不完全です。
 

自殺は迷惑

 しかしながら、身近な人に軽々に自殺されるのは困ります。
 それはコストがかかるからです。葬儀費用とかそういう実費もあれですが、やはり自殺というのは病死や事故死と違って精神的に来るモノがあります。その精神的コストは軽いものではありません。
 つまり、誰もが「死ぬ権利」を有してはいるものの、その行使には他人に迷惑をかける、ということなのです。ここで、比較的単純な権利衝突の問題に落とし込めます。要は、ある人の「死ぬ権利」を尊重するのにどれだけのコストが支払えるか、ということです。
 

「自殺してはいけない」という社会システム

 ちょっと話がそれますが、この辺の話は宗教やってる人にとっては外部化してしまっていることが多い話なので、もう自明も自明なはずなのです。例えば、私は以前からカミングアウトしている通り創価学会員なのですが、池田名誉会長とトインビー博士の対談集『二十一世紀への対話』*1で、池田が自殺に反対の姿勢を示しており、創価学会の人なら「自殺・ダメ・絶対」的な人が多いです。
 だから、「俺は無宗教なんだ」といってる奴が同じ口で「命はなによりも大切」とか言ってるの聞いた時に、「おまえ、無宗教いいたいだけちゃうんか」みたいな感想を持ちましたが、閑話休題
 
 さて、冒頭で増田に反論を致しましたが、実はあれは詭弁です*2。本当のところは「自殺してはいけない」社会システムで支えているって話ですから、あの反論は的外れです。みんなが「自殺をしてはいけない」常識で社会を平衡しているんだから、自殺したらその状態が崩れちゃうだろ、という話です。
 

それでもやっぱり自殺していい

 しかしながら、本当に誰かが自殺することによってバランスを失うような社会であれば、果たして、現在までその社会システムが維持されてきたでしょうか。実はこの社会はそれほど脆いものではないと思うのです。*3
 

「してはいけない理由」って微妙で、文章の書き手の方がご自身の抱える死への誘惑みたいなものに対する抑止力として設定したものなら、それは「しない理由」ではないでしょうか。「してはいけない理由」だと、一般化して誰もが納得できるものにする必要がないかなぁ。要約すると「他者に迷惑かけるから」ってことかなと読んだのだけど、他者に迷惑かけてもいいという人生観の人はたぶんその理由を採用しないと思う。

http://d.hatena.ne.jp/hrkt0115311/20081012/1223784875

「しない理由」は、個人的に「かくかくしかじかの理由で私は自殺しない」とブレーキかけておけば、それでOKなのではないかと思います。

 この意見に大賛成。おそらく、人類が集団自殺しない理由は、「自殺をしてはいけない」常識などという危ういものではなく、こういったブレーキの集合だと思うのです。しかし、だからこそ、人は自殺していい。
「自殺をしてはいけない」社会システムの中では、自殺した人は「いけないことをした」ことになります。自殺というものは、そういった扱いをして良いものではないと考えています。自分の近しい人に迷惑をかけても「死ぬ権利」を行使せざるを得なかった、なんというか尊厳というか、なんかそういうものを、「いけないこと」として葬るというのは違うと感じます。
 
 
 
 だから、増田、あなたは自殺してもいいと思うよ。「自殺してもいい」のに生き続けるからこそ、その生きる意志をもってして生命は尊いのだろう、と思う。

*1:だったと思うけど、うろ覚え。id:nisshiey_s1さん、フォローよろしく

*2:というか書いている途中で詭弁だと気づいたんですがw

*3:もちろん、宗教や倫理の弱体化による不安定化の要素はあると思う