「責難は成事にあらず」は小野不由美の十二国記の中で登場する言葉です。原典があるかどうかは知りません。
- 作者: 小野不由美,山田章博
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/09/05
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「何事かを批判した」ことからといって、その「何事かを成した」わけではない。というような意味です。
これは当たり前の話ですよね。責難が成事になるなら、年金問題が解決された暁には私の功績も賞されないといけなくなってしまいます。「これはあなたの成事である」と認定されるには「失敗した時の責任はあなたが取る」必要が、少なくともあります。
さらに言ってしまえば、何事かを批判する能力と、何事かを成す能力は別の物である分野もあるでしょう。私の素人目には芸術関係はそのような状態にあるように見えます。
さて。
なんでも評点:チャットルームで巡り合った男女がお互いを真のソウルメイトと確信、リアルで会ってみると毎日さんざん見飽きた顔だった
ネタバレが怖いので引用は避けますが。
この結果は、必然だったのではないかと思うのです。
いや、その出会いの確率はすごいので偶然だったと思うのですが、出会ってからの展開はありがちだったのかも。
誰かにパートナーの愚痴を聞かされたコトある方、結構いらっしゃるかと思います。その時、どんな対応をしますか? その愚痴に同調してしまいがちでは、ありませんか?
女性の知り合いに「彼氏が記念日を忘れる」とか言われた時に、「仕事が忙しかったのかも」とかいうよりも「それはひどいねー」と応じること、多くありませんか?
私はそんな感じです。だって、その方が楽だもの。パートナーをかばって取り成すよりも、批判してる方が楽。
たまたま、その女性が美人さんだった日には「そういう男は早めに見切りつけた方がいいよー」ぐらいのこと言う事だってあります*1。
普通はそれでおしまいになる話なんでしょうが、「相談相手が自分の事を分かってくれる」と思うのか、それで、なんだか良い感じになってしまうことだってありますよね、いや、私の場合がどうだとか、そういう話ではなく。
でも、ちょっと待って下さい。「責難は成事にあらず」ですよ。
その相談相手は、現在のパートナーの難点を批判するでしょう。
ひょっとしたら、建設的な問題解決のプランさえ提案するかもしれません。
しかし、批判ができたからといって、その問題を解決する能力があるとは限らないのです。そこで、たとえばパートナーを乗り換えたとしても、同じ問題で悩み離婚することだってあるのです、いや、私の場合がそうだとか、そういう訳ではないですよ。
で。
何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。
「対案を出せ」論法について - モジモジ君の日記。みたいな。
「対案を出せ」と言いたくなるのは、「責難は成事にあらず」ということを批判者が分かっていないように見える、つまり、批判者が「批判しただけで何事か成したように見える」場合があるからでしょう。
そういうわけで、何かに対する批判というのはリスペクトを伴って表すのが、一番相手に伝わるのかな、と思いました。
*1:我ながらキモい